アートジムミニエッセイ「建物」の話
- artgym
- 8月15日
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都内に住んでいるが、近所の建物がまた一つ解体された。
それほど大きくない敷地に、近頃よく見かける、すっきりと無駄のない清潔感あるモダンなビルが、あっという間に出来上がった。合理性と、適度な美しさを備えた最新デザインということなのであろう。これも令和一桁年代の建物の型の一つとして、今を生きる人の記憶に残るのだろうなと、足を止めて斜めに見上げた。
解体された建物は、「昭和」そのものであった。
幼少時代、公園の帰り道に見た遠い記憶の中にあるような、あるいは自室の整理整頓をしていて不意に見つけた昔の写真に写り込んでいるような、そんな古い建物。玄関ドアは低くて不用心なくらい薄っぺらく、軒下や階段周りもスペースに余裕がない。その窮屈さがどこかいじらしくて、日本人の栄養状態がまだ良くなくて、今より平均身長が低かったのかなとか、たとえ狭くても引き戸の門は家の大切な要素だったのかなとか、当時の生活や、知りもしない住人に思いを巡らす。
ビルの隙間から数棟の高層マンションが見えて、さらに向こうの区民センターは建て替わって間もない。どれもみな隙が無くすました雰囲気だけど、計算された温もりみたいなものも添えられていて、気が利いている。この時代の人たちは、キレイで当たり前に快適なこのようなビルとともに、これからの人生を紡いでいく。
その人たちが老いた時には、このビルも随分と年季が入ったものだ、と感慨に浸るのだろうか。それが壊されるのを見たら、同じように胸が苦しいような切ないような気分になるのだろうか。資材や技術、維持管理の向上で劣化や老朽とはもはや無縁になるかもしれない。そうしたら、そんな感傷的な気分が入り込む隙さえも、もうなくなってしまうだろうか。
(教務/watanabe)